どこまでもまっすぐに 田中將介(^^)

ethical journalism magazine 

おもしろいことは言えません。 しかし、誰かがおもしろいことを言ったことに対しては、ものすごい勢いで笑います。そんな人間です。Twitter:@ethicalmasa

立憲民主党 枝野代表は本当にヒーローだったのか

 

選挙が終わって、はや二ヶ月が経とうとしています。

 

若者の一人として、そして出馬が頭をよぎった一人として、またファクトチェックにも関わった一人として、毎日、ほぼ一日中、選挙に関わっていた一人として、ありのままの思いの丈をぶつけてみようと思います。

 

インターネット上の議論だと基本的に、敵か味方か、の議論しかないのはわかっている。それでもあえて発信してみよう。

データからもわかっているように、自分の都合の悪い情報を聞くと、より自分の好きなことによっていく。こうしてより分断されていくというわけ。

 

自民大勝、希望失速、立憲民主躍進。だいたいこんな感じで着地したんだよね。

総じてこの一ヶ月は政治家にもぐちゃっとした人間らしさが見えたことはエンタメとまでは言わないまでも、やっぱり政治家も人間で、私たちと同じなんだということを感じたんだ。

今回の選挙をきっかけに感じたことは3つほど。

  • 枝野さんは本当にヒーローなのかな。
  • 小池さん叩きよりもっと大事なことがあったんじゃないかな。
  • なんで僕たち若者は自民党に入れる人が多いんだろう。

 

大人になるまでにいろんな大人から言われた「自分が嫌がることを人にやってはだめ」という教え。まさに的を得た言葉で、たまに悪口を言いたくなったときに、でもそこはぐっとこらえることができるのは、こうした言葉が頭にあるから。

これを政治の状況によく当てはめる。

 

どうして自民党に入れるのか。僕の周りの人とよく話すことがある。

若者を、自分の地位や評判を良くするためにあからさまに集まってくる大人たちを見ていると、正直、もうお腹がいっぱいなんだ。

 

「民主主義」とか「国民のために」とか、とても大切に思っていた概念が、自分のブランドや評判アップのために使う大人たちにいとも簡単に利用されたことにがっかりした。

 

そして、その耳障りのいい、誰からも批判されることのない言葉の武器を、自分たちが主張したい意見のピースにあてはめ、SNS上で、激しい罵り合いを繰り返す。

 

シェアやリツイートが繰り返されることで、発信者はどんどん気持ちよくなり、盲目となっていく。もちろん、相手からの異論は受け付けない。「民主主義」という言葉さえあれば、どんな相手でも倒すことができる。

 

これに利用されていたのが、若者の象徴などとされるSEALDS。

 

大人たちは、彼らみたいな若者の出現に嬉しく思うかもしれない。

 

それは時にPV数や出版部数の稼ぎのために、時に、政権批判の道具のために、時に自分たちが民主主義を背負っているという自負を確信にするためのペットのように。

嬉しかったのは若者の出現ではなく、自分たちが利用できる存在の出現だったのかもしれない。

 

正直、憤っている。SEALDsがまるで若者の代表のように扱われることを。

もう、耳に入ってきた瞬間、毛嫌いしている多くの若者。

こちらがサイレントマジョリティーなんじゃないか。

 

これまで地道に政治の理解に努め、活動してきた人間たちの怒りが伝わってくる。そこには嫉妬や羨望など人間の美しさというべきか、醜さと言うべきか、いろんな感情が入り混じっているのだろう。

 

そして、追い打ちをかけるように、手段を目的化させた批判したくてうずうずしている群がりがちな大人たち。僕は、だから自民党に多くの若者が入れるんだと思う。

 

北朝鮮がこわいから、とか、他に入れるところがないから、とかいうのは、メディア向けの建前であって、正直、こうした人たちに、嫌悪感を感じ、「丁寧な説明」を求める人たちが「丁寧な対話」をする様子がないという矛盾に、意外と皆、頭が良いから気がついている。その反発の心が、自民党に票を入れる1つの理由なんだ。

 

「安倍さんは頑張っているから」と答えている人もいたが、「こんな人たち」のありえない選挙妨害で、隣で話を聞いている人たちに怪我を追わせる人たちがこわくてこわくて仕方がなかった。

そんな人たちに負けないでほしい。意外とこの気持ちを持っている。

 

そして、次に小池百合子叩きより大切なことがあったのではないかということ。

 

今回、小池氏率いる希望の党が失速した原因は「排除」という言葉だったと、揃いも揃って言われている。

小池さんが反省していた通り、確かに致命的なミスであったことに違いない。そして、ここまで小池百合子批判が気持ちよくてしょうがない人たちの天国な社会になるとは思わなかった。

 

もう満足した頃だろうか。さて、次は誰を引きずりおろそうか。という頃だろうか。

一つだけ、小池さんについて誤解しがちなことがあるので、書いておきたいことがある。

 

例えば、小池さんを憎みたい人にとって、耳障りの良い情報が多く流れ出し、多くの情報が流れ出した。しばらく言われてきたが、小池さんは「渡り鳥」であるという指摘。

 

ジョブホッパーの末路という、貶めることの最終形態のような批判が多く見られるが、こういったざまあみろ小池、といったような論調が広がることに、異様な嫌悪感を覚える。

 

渡り鳥という定義によって変わるため、重箱の隅をつつくような人が出てきそうだが、小池さんは、政党を自分から移ったことはたった一度だけしかない。

 

解党されたから、違う政党に行っただけ、わかりやすくいえば、自分の会社が、違う会社に買収された、そうすると必然的に自分の所属している会社の名前が変わるわけだ。

 

それなのに、「お前は渡り鳥だ」と言われても・・・。ということになる。

 

これほど虚しい、そして無知な指摘はない。

 

さらに、転職をする人はこの世の中に多いわけで、自分のやりたいことを実現するために、働きやすい環境にいくために、会社を移って何が悪いの?ということにならないか。と、ここまで胸を張って述べてきたことは、私が池上彰さんから教えてもらったことだ。(笑)私も堂々と、池上さんに、「小池さんは渡り鳥と言われていますが・・・」と質問をぶつけて返ってきた答えを自分のもののようにしたわけである。

いまもなお勘違いしている人は多いかもしれないので、伝えておく。

 

 

そんなこんなで忘れ去られがちではあるが、僕にとって「ドン引き」したことはむしろ、希望の党が結成された際に、前原代表は、希望の党への合流を民進党の国会議員に提案した。そして、満場一致で承認された。

 

相当、国会議員は高揚しておりましたが、こちらは冷めておりましたよ。

 

あれだけ、憲法守れと言い続け、国民とともに進むというようなスタンスを取っていた人たちが、あっさりと改憲派、さらにはまだ公約もはっきりしていない段階で合流を決定したことに、笑いを通り越して、呆れましたよ。

 

「こんな人たち」が日本の中枢だったのかと。そりゃ、若者は政治に期待する必要ないし、自分の居心地の良い世界で生きていればいいよね、となってしまう。

もちろん、この中には、枝野さんたちもいたんだよね?

というところで、本当に枝野さんや立憲民主党はヒーローなのかな?

 

  • 枝野はヒーローなのか

 

2012年、1月、枝野さんは当時経産相として、原発の再稼働について判断を迫られ右往左往していました。

原発ゼロになる可能性を指摘しながらも、結局、民主党政権下に、関西電力大飯原発が一時再稼働しました。立憲民主党での主張において、原発再稼働を反対することで、多くの支持を集めています。

確かに、当時の状況に比べ、原発再稼働反対の立場になったということでしょうが、彼の当時の決断についてきちんとした理解が広がっているのか、支持者は理解をしておくべきです。

 

もう一つ、枝野さんは、改憲派であるわけです。しかし、もう、「憲法守れ」という人たちから支持をもらってしまった以上、枝野さんの決断は難しいでしょう。こっそり、自民党頑張ってくれと思っているに違いありません。何が国民の声?何が市民の声?

アベ政治を倒すのが目的なの?憲法を守ることが目的なの?

違うでしょう。

日本の社会が、そして世界がより良い方向に向かうことを目指して、政治家は、そして私たち一人ひとりが頑張っているわけです。

ちょっと、騒ぎ立てる人たちが多すぎて、うんざり。

声には出さないけれど、というか、出すほど興味がない、むしろそれによって、離れていく事に気がついていない。そういう大人たち、そして若者たち、を見ているわけです。

 

こうした事実に沈黙を守り、支持者は目をつぶる。

 

それが政治家なんだ、と言われればそれまでですが、政治家ではない私にとって、結局のところ、国民をだましているんだなあと思うと、みんな表立って批判していることは結局自分もやっていることであって、まあ人間そんなもんなんだろうなと思うわけです。

 

だから、憲法反対を叫んでいる人たちも人間であって、自分が批判していることが回り回って自分もやらかしている、という場合があるという余裕も必要ではないかなと思います。ちょっと皆力みすぎている。

 

その憎しみの能力はすごいなと思うけれど、そんなに力んでいたら、だいたいぼてぼてのピッチャーゴロに終わります。

 

果たして、安倍政権を交代することなど、正直、私は期待していません。

「民主主義」という耳障りの良い言葉をぶらさげて、一部の市民たちが異様な盛り上がりを見せていた。僕には立憲民主党が躍進しただとか、SNSの広がりが大きかったと言いますが、これまでの支持層とほぼ変わらず、これまで通り、ネット上で激しく議論にならない議論を繰り返す人たちなんだと思っています。

 

もちろん、野党の力が必要で、権力の監視をすることは必要だと思っているのですが、僕が言いたいことは、果たしてそういう人たちが、目の前の自分にとって耳障りの良くない事実に対して、どれだけ耳を傾けているかということであります。

 

顧客が決まった政党であるわけです、立憲民主党は。政権を取れない、なんてこと、1番わかっているのは枝野さんじゃないの?

 

有権者を裏切る。「国民のために」といって批判している人は、だいたい自分がそう思っているのを、ただ国民が代弁していると言っているようなもん。

 

国民が怒っている、納得していないって自分の言葉じゃん。ださい。

 

国民が納得していない。とか、自分が納得していないだけじゃないの。と思う。国民を上手に利用しないでほしいと思う。もし、それが自分の意見なのであれば。

憲法改正じゃないという立ち位置。陰謀論とかフェイクニュースとか、すぐに言葉を使って否定するわけ。私はずっと選挙期間中、フェイクニュースをチェックするという仕事をしていた人間にとっては、少し残念。

 

 

■終わりに

 

さんざん「大義がないじゃないか!」なんて思うほど、人間って頭は良くないと思う。大義があったら選挙に行くのだろうか。政策論争が出来ていない!というが、政策が良い政党が与党になれるのだろうか。

 

もちろん、多少は関係があるのかもしれないけれど、正直、そんなことまで考えていない。もっと、人間の奥底にある、欲望や感情が優先されるんだと思う。これまでの選挙や今回の結果を見たって実際そうだったし。

 

さて、これから野党がどうなっていくのか。メディア的には注目かもしれないが、国や世界を良くするために、与党がやっていくことは変わらない。「モリカケ」問題で、「お友達内閣」と批判されているけれど、逆に聞きたい。

 

僕たちだってお友達と仲良くするし、お友達だから、仕事を頂いたり、お願いしたりする。意外と当たり前な話だったりする。そこに、法律違反があれば、もちろん問題だけれど、正直、ここまで時間をかけたのだから、全ての鬱憤をモリカケのせいにするのではなくて、もっと議論するべきことに時間を割いてほしいと切実に思うわけ。

 

だから、野党でごちゃごちゃいつまでもしているのではなくて、本当に解決したいことに情熱を注いでほしいと思います。

 

結局、皆自分がかわいくてしょうがないということ。それでいいんです。

それでも譲れない部分は譲れない。それでいいから、全てにおいて、弱者の見方ぶるのは格好悪いし、いざ勝負時!となったときに、もろく崩れるということ。

 

だから、自分の心に正直になるべきだと思う、枝野さん、改憲はありだと思うなら、今のうちに言っておいたほうがいいと思うよ。

 

それにしても、もう一部の大批判、悪口を言い続けてきた人たちは、その対象が、どん底に落ちたらもう満足であるわけなので、小池さんや希望の党はよしよし、許してやるか、という深層心理なのだと思います。

だから、ゆっくりと着実に、都政が進むことっを皆で応援してあげましょうよ。私たちが選んだ都知事なんですから。

だって、あれだけ批判を受けた舛添都知事がもうテレビやらなんやらに復帰しているわけですからね。

まあ、私は舛添さんがお金もない、毎日ゴミを出していて早く発信したいというので、取材させてくださいといったら、「時間がない」と言ってお断りされたので、大変失望しきっているわけでありますが。

 

結局、ぼくが言いたかったことは、それぞれの政党の素晴らしさやら限界やらではなく、人間らしさを楽しんで、自分の主張が絶対に正しいわけではないという頭の中の余白を持たないと永遠とマウンティングのやりあいが続くんだろうなあということ。

 

 

笑い・命さざめく カンボジア ポト派少年兵の初恋 処刑した日々

https://mainichi.jp/articles/20171111/ddl/k36/040/597000c

 

 

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。
 
 
 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。
 
 ■オンカーの子
 
 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。
 
 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。
 
 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。
 
 ■敵は根絶やしに
 
 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。
 
 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。
 
 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。
 
 ■「天に昇る気持ち」
 
 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。
 
 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。
 
 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。
 
 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。
 
 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。
 
 ■森で闘い、歌った
 
 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。
 
 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。
 
 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)
 
 

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

小池劇場 自民VS希望 民進解党?の政局で可視化される「だせえ」人たち

安全地帯からボールを投げ込む人の多さに辟易としている。

 

実際何が起きているかなど、わかっているはずもない人たちが、

新聞やネットニュース、「評論家」の意見を受け売りにして、印象批評をしている。

だせえ。

 

自分のブログのアクセスをのばすため、「いかにも政局を知っていますよ?」

という自分のブランディングのため。

だせえ。

 

何のリスクもとらず、自分の思いたい、着地させたい方向に、あたかも自分の声ではないかのように、「国民は」という主語を使って自分の意見を代弁させている。

雑誌でいう、「関係者によると」状態だ。

 

 

続けて、民進党。

僕は、民進党の人たちの声や表情を見ていると、なんだか「ホッ」としているように感じる。

自分からは恐くて、「民進党抜ける!」って言えない。どこか決断ができず、離党しないまま、なんとなく党にいる。離党したら、「あいつは裏切り者だ!」というレッテルを貼られるから。

 

そんなリスクをとらずに、希望の党に入ることができた。「ホッ」。

だせえ。

 

「民進党を離党する!」と関係各所との調整をして、抜けた人がばかみたいじゃないか。僕はそちらを評価する。かっこいい。

国会議員という席を獲りたい!と思うのは、人間として当たり前なんだから、

外野が「いかに国会議員が席を獲るために右往左往している姿がみっともない」

というが、そっちのほうがみっともない。

自分が議員だった場合、勝ちたいのは当然だ。

 

ださいのは、何度も言うが、周りの評価を恐れて自ら決断できず、

結果的に「俺は別に行きたくなかったんだけど・・・」と漏らしながら、

内心ホッとしているような国会議員だ。

こんな人が、リーダーとして決断できるわけがない。

要チェックだ。

 

続けて、「アベ政治を倒すためには」と言っている人。

論外。

おそらくそういう人たちも、「安倍政権が終わったあと、こうすればいい」という

考えは少しはあるのだろうが、

安倍政権を倒すことが目的と化していて、

結局それが「どう国民のためになるのか」ということを一切考えてないただの自己中。

こういう人たちこそ、退場してもらいたい。

もちろん政権交代をすることは大事だ。

しかし、協力できることは協力すればいいじゃないか。

権力闘争は大事だが、議論をよりよくするためのものだ。

 

「安倍政権は退場」という思考がアブない。

他人が何を言っても受付けないタイプの人間だ。

自分が権力をもったら乱用するタイプだ。

だせえ。

 

最後に。

週刊文春の新谷さんがいいことを言ってた。

「政局の人間と政策の人間が、きちっと組むことが1番いい」

人間なんて役割分担だ。

小池さんの政策にぶーぶー言う人が多すぎ。彼女は政局の人間なのだ。

その上で、きちっとした政策の人間と組むことが大事なのだ。

小池都知事が都政に何をした?という人がださすぎる。

いろいろやってるよ。あなたたちが知らないだけなのに、

自分の主張に色を添えるために、都合のいいように「知事は仕事をしていない」という。しかも1年でそんな目に見えるようなことなどできるわけあるか。

だせえ。

別に小池新党を応援しているわけじゃないけどな。(笑)

 

 

 

 

「時言」カンボジアの危機

【共同】カンボジアの民主主義が危機にひんしている。
 
最大野党カンボジア救国党のケム・ソカ党首が国家反逆罪に問われて逮捕、訴追された。有力な英字紙が法外な税金の支払いを求められて廃刊となり、米政府系放送局「ラジオ自由アジア」は首都プノンペンの支局の閉鎖を決めた。
 
いずれも来年の総選挙をにらんで、フン・セン首相(66)がなりふり構わない批判封じを図った結果とみられている。
 
フン・セン氏は内戦中の1985年に親ベトナム政権の首相に就任して以降、政体が変わっても一貫して権力の座にある。世界有数の長期政権だが、強権的な政治手法や腐敗体質が内外で批判を浴びており、4年前の前回総選挙と今年6月の地方選で、続けて野党の救国党の躍進を許した。
 
野党党首の訴追についてフン・セン氏は「自国民の反逆という痛ましい事態を見た。私は少なくとも10年は仕事を続けなければならないと決めた」と言っているという。
 
長年のカンボジア内戦を終わらせたのは、国連平和維持活動(PKO)の下で実施された93年総選挙だった。同年に報道の自由の確立を支援するため、昭和天皇の単独インタビューで知られる米ニューズウィーク誌元東京支局長バーナード・クリッシャー氏が、英字紙カンボジア・デーリーを創刊した。
 
同紙は腐敗や人権侵害を追及し、知識層の信頼を集めていたが、8月に突然、約7億円相当の税金の支払いを求められ、廃刊に追い込まれた。
 
93年総選挙の際は国連ボランティア中田厚仁さんと文民警察官高田晴行さんが殺害された。各国が大きな犠牲を払って誕生させた新生カンボジアの民主主義が、約四半世紀を経て失われる事態を、国際社会は許してはならない。(淳)