どこまでもまっすぐに 田中將介(^^)

ethical journalism magazine 

おもしろいことは言えません。 しかし、誰かがおもしろいことを言ったことに対しては、ものすごい勢いで笑います。そんな人間です。Twitter:@ethicalmasa

笑い・命さざめく カンボジア ポト派少年兵の初恋 処刑した日々

https://mainichi.jp/articles/20171111/ddl/k36/040/597000c

 

 

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。
 
 
 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。
 
 ■オンカーの子
 
 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。
 
 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。
 
 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。
 
 ■敵は根絶やしに
 
 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。
 
 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。
 
 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。
 
 ■「天に昇る気持ち」
 
 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。
 
 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。
 
 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。
 
 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。
 
 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。
 
 ■森で闘い、歌った
 
 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。
 
 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。
 
 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)
 
 

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

1975年4月。急進的なカンボジア共産党ポル・ポト派が米国が支援する政権を打倒したのは、ソパ(仮名)が7歳の時だった。私有財産や階級社会を否定するポト派は農民を主体とする新たな国の建設を目指し、都市住民を農村に強制移住させ働かせた。敵とみなす者は処刑し、病気や飢餓で多数が死に追いやられた。

 

 ソパは少年兵となり、ベトナム軍侵攻でポト政権が崩壊した後も闘い続けた。ポト派が99年に消滅すると西部パイリンで、元最高指導者ヌオン・チアらの身辺の世話や地雷除去に従事した。元指導者に約200万人の死の責任を問う特別法廷が終盤を迎える今、49歳になったソパは過去を語り始めた。

 ■オンカーの子

 10歳の時、初めて人を処刑した。後ろ手に縛った「敵のスパイ」の男10人を僕ら6人で森に連れて行った。40歳くらいの男が無言で僕を見た。怖くはなかった。後ろから銃殺した。

 僕は西部バタンバン州の村で生まれ、両親と一つ違いの兄と暮らしていた。ポト派が政権を取る前から支配していた地域だ。ポト派政権になって2年ほどたった時、親と離され少年団での生活を命じられた。

 「オンカーの子」として国を愛し、集団の規律を守る--。厳しく教えられた。オンカーとは偉い指導者のことだろうと思ったが、一体誰なのか、知っている人はいなかった。太陽が空のてっぺんに来るころに「気をつけ」の姿勢で「イチ・ニ・サン……」と、みんなで百まで叫ぶのが日課だった。

 ■敵は根絶やしに

 間もなく兵士になるよう命じられた。兵士はご飯がたくさん食べられるし銃を持てる。みんながなりたがった。重要なのは「敵を抹殺する」こと。敵とはカンボジアを支配しようとする隣国のベトナム人、米国の中央情報局(CIA)など外国のスパイ、腐った思想に犯された前政権のやつらだ。

 僕の部隊は、北西部で数千人の敵を処刑した。大きな穴を掘り、その前に順番に立たせる。敵は「根絶やしにする」のがオンカーの方針だから、女や子どもも、だ。穴に積み重なる死体を見て、気を失ったり泣きだしたりするやつもいた。

 楽しくなんかないけど、悲しくもない。頭を空っぽにして撃つ。ダダダダッ。銃声を消すためトラックのエンジンをふかし続けた。純粋なカンボジア人の独立国をつくるためだった。後悔はしていない。

 ■「天に昇る気持ち」

 うれしかったこと? あったよ。長ズボンと長袖シャツをもらった時だ。短いものしか持ってなかったから、いつも欲しかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻で政権が崩壊し、タイ国境近くの森まで逃げる途中、中国製のものを渡された。11歳になったばかりだった。

 僕らは森を拠点に、ベトナムとかいらい政権の軍と戦い続けた。10年近くたち、和平に向けた会議がジャカルタで開かれたころ、首都偵察を先輩と命じられた。

 驚いた。森で闘っている間に、街はきれいに整備されていた。先輩に連れられ、ある家に行った。女の子が次々とあいさつに来る。娘がたくさんいる家なんだな、と思っていたら「女を選べ」と言われた。売春宿だった。

 初めての体験だ。戸惑いながら指さした女の子に部屋に案内され、彼女が水浴びをしている間、ベッドに横になり両手で胸を抱えて震えていた。「大丈夫よ。あなたも水浴びをして」。胸まで布を巻いた彼女がそばに来て笑った。

 腰までの黒髪と明るい肌。初めて恋をした。オンカーは人を愛することは教えてくれなかったけど、天に昇るような気持ちなんだね。朝まで愛し合った。二人で笑いながら水浴びをし、キスをしてまた抱き合った。

 ■森で闘い、歌った

 森に戻ると仲間にこう言われた。「あそこの女たちはベトナム人だ」。なんてことだ、結婚したかったのに敵だったなんて。二度とそこには行かなかったけど、彼女のことは忘れられない。

 90年代終わりごろ、生まれ育った村に行ったら母さんがいた。20年ぶりの再会に母さんは泣いた。僕は泣かなかったけど、父さんが病死したと知り、寂しかったな。いつも膝の上で抱き締めてくれたから。少年団に入る前、配給がわずかで空腹でたまらなかった日、父さんが危険を冒して米を盗んできた。他の人に見つからないように夜、暗闇の中で家族で食べた。父さんが誇らしくてうれしくて、幸せだった。

 こうしてみると悲しい話ばかりだな。「カンボジア人であることは誇り」なんて歌があるけど、現実は違うよね。でも話したいことがたくさんある。ヌオン・チアが特別法廷に逮捕されパイリンを去る時、高らかに笑ったこととか、僕たちが森でどう闘ったかとか。森で歌うと、声は木に反響するんだよ。(敬称略)

小池劇場 自民VS希望 民進解党?の政局で可視化される「だせえ」人たち

安全地帯からボールを投げ込む人の多さに辟易としている。

 

実際何が起きているかなど、わかっているはずもない人たちが、

新聞やネットニュース、「評論家」の意見を受け売りにして、印象批評をしている。

だせえ。

 

自分のブログのアクセスをのばすため、「いかにも政局を知っていますよ?」

という自分のブランディングのため。

だせえ。

 

何のリスクもとらず、自分の思いたい、着地させたい方向に、あたかも自分の声ではないかのように、「国民は」という主語を使って自分の意見を代弁させている。

雑誌でいう、「関係者によると」状態だ。

 

 

続けて、民進党。

僕は、民進党の人たちの声や表情を見ていると、なんだか「ホッ」としているように感じる。

自分からは恐くて、「民進党抜ける!」って言えない。どこか決断ができず、離党しないまま、なんとなく党にいる。離党したら、「あいつは裏切り者だ!」というレッテルを貼られるから。

 

そんなリスクをとらずに、希望の党に入ることができた。「ホッ」。

だせえ。

 

「民進党を離党する!」と関係各所との調整をして、抜けた人がばかみたいじゃないか。僕はそちらを評価する。かっこいい。

国会議員という席を獲りたい!と思うのは、人間として当たり前なんだから、

外野が「いかに国会議員が席を獲るために右往左往している姿がみっともない」

というが、そっちのほうがみっともない。

自分が議員だった場合、勝ちたいのは当然だ。

 

ださいのは、何度も言うが、周りの評価を恐れて自ら決断できず、

結果的に「俺は別に行きたくなかったんだけど・・・」と漏らしながら、

内心ホッとしているような国会議員だ。

こんな人が、リーダーとして決断できるわけがない。

要チェックだ。

 

続けて、「アベ政治を倒すためには」と言っている人。

論外。

おそらくそういう人たちも、「安倍政権が終わったあと、こうすればいい」という

考えは少しはあるのだろうが、

安倍政権を倒すことが目的と化していて、

結局それが「どう国民のためになるのか」ということを一切考えてないただの自己中。

こういう人たちこそ、退場してもらいたい。

もちろん政権交代をすることは大事だ。

しかし、協力できることは協力すればいいじゃないか。

権力闘争は大事だが、議論をよりよくするためのものだ。

 

「安倍政権は退場」という思考がアブない。

他人が何を言っても受付けないタイプの人間だ。

自分が権力をもったら乱用するタイプだ。

だせえ。

 

最後に。

週刊文春の新谷さんがいいことを言ってた。

「政局の人間と政策の人間が、きちっと組むことが1番いい」

人間なんて役割分担だ。

小池さんの政策にぶーぶー言う人が多すぎ。彼女は政局の人間なのだ。

その上で、きちっとした政策の人間と組むことが大事なのだ。

小池都知事が都政に何をした?という人がださすぎる。

いろいろやってるよ。あなたたちが知らないだけなのに、

自分の主張に色を添えるために、都合のいいように「知事は仕事をしていない」という。しかも1年でそんな目に見えるようなことなどできるわけあるか。

だせえ。

別に小池新党を応援しているわけじゃないけどな。(笑)

 

 

 

 

「時言」カンボジアの危機

【共同】カンボジアの民主主義が危機にひんしている。
 
最大野党カンボジア救国党のケム・ソカ党首が国家反逆罪に問われて逮捕、訴追された。有力な英字紙が法外な税金の支払いを求められて廃刊となり、米政府系放送局「ラジオ自由アジア」は首都プノンペンの支局の閉鎖を決めた。
 
いずれも来年の総選挙をにらんで、フン・セン首相(66)がなりふり構わない批判封じを図った結果とみられている。
 
フン・セン氏は内戦中の1985年に親ベトナム政権の首相に就任して以降、政体が変わっても一貫して権力の座にある。世界有数の長期政権だが、強権的な政治手法や腐敗体質が内外で批判を浴びており、4年前の前回総選挙と今年6月の地方選で、続けて野党の救国党の躍進を許した。
 
野党党首の訴追についてフン・セン氏は「自国民の反逆という痛ましい事態を見た。私は少なくとも10年は仕事を続けなければならないと決めた」と言っているという。
 
長年のカンボジア内戦を終わらせたのは、国連平和維持活動(PKO)の下で実施された93年総選挙だった。同年に報道の自由の確立を支援するため、昭和天皇の単独インタビューで知られる米ニューズウィーク誌元東京支局長バーナード・クリッシャー氏が、英字紙カンボジア・デーリーを創刊した。
 
同紙は腐敗や人権侵害を追及し、知識層の信頼を集めていたが、8月に突然、約7億円相当の税金の支払いを求められ、廃刊に追い込まれた。
 
93年総選挙の際は国連ボランティア中田厚仁さんと文民警察官高田晴行さんが殺害された。各国が大きな犠牲を払って誕生させた新生カンボジアの民主主義が、約四半世紀を経て失われる事態を、国際社会は許してはならない。(淳)

せめて、2020までは生きていたいと思う

この1年をふと振り返ってみると、

とにかく孤独という言葉がぴったりきた。

 

もちろん、多くの人に支えられ、多くの人に助けられた。

 

けれど、一人の時間を意識的になのか、無意識的になのか、

気がつけば、友人たちに会うことはほとんどなかった。

 

昼も夜も予定なんてほとんどなかった。

 

自分のことを話すのもどんどん苦手になってきた。

それは、結果を出してないから、作品を出してないから、

意地でも、結果を出してから、どかんと報告したかった。

PVよりも信頼を。

どこかでひろった言葉だけれど、心に刺さった。

僕は、この一年間、とにかく信頼となる、実績となる、カタチに見えるものを残すことをとにかく求め続けた。

 

その結果、自分一人では何も生きて行けず、甘い人生だったと思う。

それでも、納得できた1年だった。

人間は誰しも、自分の人生を振り返り、いい1年だった。いい人生だった。この選択をしてよかった。と思い込む生き物であるから、

あ〜よかった〜、なんて口が裂けてもいいたくない。

だって、それは思考停止して、自分に言い聞かせているだけの甘々な人生でしか無いから。

 

激しく後悔し、後悔し、後悔し続けることのできる人間でいたいと思う。

 

正直、まだ1つも納得行く結果を出せていない。

常にSNSを見て、怒りを必死でこらえていた。

見てろ、と。

数々のばかにされてきた人たちを、見返してやりたいという、

負の感情がメインではないけれど、

ときにそうして、見てろよ。できるんだぞ。と自分を奮いたたせる。

 

思考が先行して、こいつだせえな、甘いな、なんでこんなことするの、

と、人を批判しまくって、結局結果を出せない自分にいらいらする。

そういう批判対象の人たちには、いまだイライラする。この世の中、腹が立つ人間ばかりだ。

こんな世の中に生きているのも激しく嫌だ。

嫌で嫌で仕方ないけど、たまに、あ、よかった。って思う。

 

小さなことに、とてつもない感謝の念が溢れ出し、涙しそうになる。

 

今年もあと3ヶ月になる。

うーん、僕は、ずっとこのままでいくのだろうか。

このままで生きたいのだろうか。

せめて、2020までは生きていたいと思う。(笑)